東京はすべての始まりの終わりの始まりの終わりの土地

Twitterを始めたわけは大学生活が主なきっかけだった。

私は大学に入り上京し一人暮らしをするまで、通信制高校と田舎の図書館の自習室と自室を黙々と行き来する生活を送っていた。
会話はあっただろうか。何かの受け答えにイエスかノーで答える事くらいしか出来なかったことと、英作文の添削にまつわる質問をしたことしか覚えていない。
あとのほとんどは照れ笑いで乗り切っていた覚えしかないし、Facebookで今でも関わりのある友達もいることはいるけれど自分から何かを話したことはほとんどなかったと思う。話しだすと意味不明なことを延々と言い続けてしまうから。
 
大学は右も左もよくわからないような賑やかな場所で、当時の私は新しい環境に夢を抱きつつも天井から何かが降ってくるのを皆がすくい、そこから落ちた粒をひたすらかき集めるチャンスを狙うハイエナみたいな性質だったと思う。
大学にはなんとなく馴染めて、入った学部に変わった人たちが多かったからか、積極的な一人に声をかけてもらいその人についていき芋づる式に仮設された人間関係の輪に入っていた。寡黙で、見栄っ張りで、嘘ばかりついていた。
 
しかし自分から話しかけるのはとても苦手だった。
高校時代には一度も友達と放課後ファミレスに行って談笑するなどというイベントもなかったし、楽しみといえば自転車を走らせブックオフやお宝発見館で掘り出し物のサブカルみたいな本を購入したり、地元のレンタルビデオ店を何件も巡り散在するハードロックとプログレとメタルの名盤をいかに安く借りるかに没頭するなどという1人でいることを楽しんでいたから、どう話を切り出したらいいのかとか、人間との距離感とか、まったくわかっていなかったからキャンパス内で誰かに声をかけられない限り一人でずっと過ごしていた。
実家にいる時は、絵を描き漫画を読み音楽を聴き、定期購読していた青文字系ファッション雑誌を手垢がつくまで読み、本棚を埋め尽くしたらお気に入りのコーディネートを切り抜きスクラップブッキングしてから処分していた。
芸術や文化の中でも、ファッションに対する憧憬も持っており、田舎の物の価値のわからないような古着屋で安売りされていた派手なブランド物の服や需要のないバンドTシャツをこよなく愛していた。だから自らコミュニケーションが取れなくても、都会で浮かずに済んでいたしファッションを通して声をかけてくれる人も少なくなかった。
 
1人で広いキャンパス内をさまようしかなかった私に、そのファッションを通して声をかけてくれたのが良くも悪くも大学生活のほとんどを占めた軽音楽サークルの先輩にあたる人だった。
私は形容すればいかにもスカしたような身なりをしていて、それが功を奏してた。
軽音サークルの人からしたらロックが好きなので声をかけてください、と言わんばかりの見た目だった。毛先を強い赤色に染めた人間が声をかけられないほうが不思議でもある。
新品だがダメージ加工されたバンド風の派手なラグランTシャツにサイジングに気を使いスタイルがよく見えるようにロールアップしサスペンダーをつけてチャラくしたボトムス、足元は偽物のジョージコックスかドクターマーチンを履き、OUTDOORのアメリカ柄の、缶バッチをつけたいかにもなリュックを背負っていた。
 
高校時代の思い出を付け加えれば、ギターを買って貰いひたすらニルヴァーナのスメルズのリズムカッティングを練習したり、ブラックサバスのParanoidでギターソロとバッキングを覚え、地獄のメカニカルトレーニングの教本を買って諦めて、ユキと名付けた白のSGがインテリアと化した事もある。
友達がいれば地元でもバンドを組みたかったし組んでいただろうけれど、口もろくに聞けない自分にそんな友達なんているわけがなかった。
 
だけれど、ずっとバンドを組みたい思いは残っていて、あわよくばと思いインテリアとして愛でていたユキを新居に持ち込んで飾っていた。すくい上げた砂の中に、あるいは浮遊している間にバンドを組むチャンスがある事を内心強く願っていた。
そしてそんなものは強く願わなくてもすぐに叶った。
そもそも最初に声をかけてくれたのはシンガーソングライターで後に同じバンドを組むことになった人物だったのでとてもミュージシャン人口が多く様々な伝説のバンドを輩出した大学だったことを後に知った。
サークルの勧誘からとんとん拍子に入部審査(コネが必要)を通りバンドを覚え日常会話を覚えやれ酒を覚え煙草を覚え男を覚えと、今までの引きこもり生活から一転、アクティブな人々に囲まれた刺激溢れる毎日が始まり、それはサークルを引退するまで続いた。そんな人々に囲まれた中うまく話せなかった私は見た目が派手なギャップからも面白がられていた。
だけれども、いきなり180度違う視界に変わった生活を維持するのにはかなりの労力を割くこととなり、限界を知らない私はどんどんペースを上げていった上に常識知らずだったから、三年と持たずにくたびれていった。
そうやってくたびれ始め、気づけばTwitterのアカウントが二つになっていた。ひとつは従来の知人と関わりを持つためのもので、新しく作ったアカウントは誰一人フォローをしていない鍵付きのアカウントで、悪口こそ書かなかったもののしょうもないウンコみたいなことばかり呟いていた。