閉鎖病棟からこんにちは(3)〜路上に捨てる〜

閉鎖病棟内での生活にも、4日程度建てばすぐに慣れてきた。病棟内の人々ともなんとなく打ち解けることができてきた。

最初のころは手持ち無沙汰にベッドにこもり、ロビーにある本を借りて読んでいる時間が多かったが、よくトランプをしていた人たちは積極的に声をかけてくれるようになり、かなりフランクに接していた。
 
閉鎖病棟での措置入院生活は、基本的に一ヶ月前後だという。しかし、中には自由がなさすぎる環境が帰ってストレスとなりうると判断される患者は2日程度で出て行ってしまうケースもあるという。
ズルい話ではあるが、近い日に私は海外旅行の計画を立てていた。
それについてはどうしてもキャンセルができないし、同行者への迷惑を鑑みたことと、いくら調子が悪くとも絶対に改善の兆しになるだろうと考えており行こうと思っていた。
私は同じところにずっととどまるというその行為だけで自殺してしまいそうになることが少なくない。
そしてこれ以上、イレギュラーなチャンスを無駄にしたくは無かった。
ということで、その旨を伝え、従来より一週間程度の入院という予定を組んでもらっていた。
一週間、経過を見て何か問題を起こして保護室に入れられる様なことさえなければ大丈夫、とのことだった。
 
もう数日後には退院できるだろうという頃合いだった。すこし彼らが名残惜しくもなり、なるべく沢山話して他の人たちとも交流を深めたり、作業療法に参加するなど積極的に閉鎖病棟内の退院への日々を過ごしていた。
 
しかし、その環境に親しみ深くなるとともに、そして、病棟内の人々について知るたびに、そこにいる彼ら全員が何故ここに辿りついてしまったのかという事もだんだんと脳裏に描かれていった。
自殺についてロビーで談話していた。すると突然、患者の女性が振り返り「死になさいよ!」と罵声を浴びせてきた。話し声が大きく攻撃してしまった様に聞こえたのかもしれない。その日には、ほかの患者からも(いつもと同じ様に談笑していた時に)「うるさいわよ!」と怒鳴られた。
 
そういった、普段おとなしい患者たちの薬だけではコントロールできない部分わ垣間見たり、保護室から時間限定でロビーに出られる様になった患者の虚ろな視線を受けたり、眠っている時に目を覚まされただれかの暴れ叫ぶ声を聞くに従って、ここに私は居るべきでないと感じる様になった。私よりずっと重症の人々だ。なんだか、とても申し訳がなかった。
 
また、そこにずっとい続ければ私が死のうとした時よりも帰って生気を奪われかねない、と感じ急にそこにいることが怖くなった。
 
私は部屋自体の消灯時間になっても電気のついているロビーで人々と話す生活をしていた。
院内では引き継ぎが上手くなされておらず睡眠薬が処方されず、なかなか夜眠くならなかったからだ。
眠くなったらすでに暗くなった四人部屋に行く。それまではロビーの患者といたり、TVを眺めていたり、テレホンカードで友人に電話をしていた。
 
しかし、布団に篭ろうとも眠れぬ夜が続く様になった。意識を落ち着かせようとも彼らのことやこの場所について浮かんできてはとても悲しく報われない気持ちが溢れてきてしまう。
それとともに、自分の行為もひどく浮き彫りになっては悪夢の様な妄想が意思に反して起こる様になり、そこにいる事が苦しくなってしまった。
発狂して頭をガラスに打ち付けそうになったが耐えて、それからの夜は頓服でロラゼパムという安定剤をもらう事になった。
 
退院の日が近づく。それは予定の日であったが、正式な退院を告げられたのは前日であった。
人々への感情移入しきれない苦しみが滲み出ているのを見て取れる様になった頃には、名残惜しくも、一刻も早くここを出なくてはいけないという使命感にも囚われた。
 
だから、予定通り退院を告げられた事が有り難かった。退院したところで、とくに夢も希望もなく、這い上がることのできないほどに心を押しつぶす絶望を持ちながらも、ひどい迷惑をかけながらもなお。
 
退院の日には、二度と彼らには会うまい、と強く思える様になった。まだ、私には入院の必要があるかもしれないが。
だが、今はここの空気に心を殺されるくらいなら、意地でも生きてやろうという気持になれた。
話をした患者たちに別れの挨拶を軽く済ませ、病棟を出る準備をした。母が待っていた。
 
またね!と躁病患者の声がする。
二度と会うか!!と私は笑顔で怒鳴った。