ナナシスのイベント無課金でどこまで走れるかやってみた

仕事を辞めた6月ごろから、デレステをインストールしてからというもの、小・中学生の頃に毎日ゲーセンに入り浸り音ゲーのPOPを顔なじみの店員さんに持ち帰らせてもらえるくらいプレイしていた自分はどっぷりそれにはまり込み、スタミナのある限りずっとシャンシャンプレイし続けていたのだけれどそれだけでは飽き足らなかったのと、

 
とにかく音ゲーをしつつ可愛いアイドルをプロデュースしまくりたい!
 
という一心でTokyo 7th Sisters(ナナシス)を並行し初めて2ヶ月、いやRMTしたので実質1ヶ月が経過しました。 
 
そして「このゲームは無課金でスタミナを漏らさずイベントを走ったら何位まで行けるんやろ?」という疑問を持ち、金はないだけど暇はある、無職だからこそできるチャレンジをしてみました。
 
やったのは先週まで開催していた「Try The New Number」の”FALLING DOWN”、曲がエモーショナルで好みだったのもあってはかどりました。 
 
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ちなみに私のレベルはイベント開始直後50前後で、手持ちデッキはGS1枚、G10枚と弱いです。
 
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って感じでカード自体のレベルも低いです。

 
 
最初に決めたプレイ条件として
・3時間おきにMAXになるTry-Pointを漏らさず(就寝時は3時間ごとにアラームを設定)
・1ptずつ消費する→その方がペンダントを獲得しやすい
・後半戦までペンダントを溜め、Heavens Modeの際に消費ペンダント4倍で2回ずつプレイ
・HeavensMode延長も、エナジー購入もしない
・難易度hard★★★★★★★★☆☆☆以上の曲をプレイし、スコアSを取る
・当然限定ミッションでもらえるエナジーは必ず取る
 
 
 
…というものを設定したんですが、走ってるうちに疲れたので寝ている間はやらずにおとなしく寝る事にしました。寝ぼけ眼だと、ノーツ見えなくて失敗するし。
 
消費Ptと4倍消費は条件通り進めましたが、スコアに関しても、下手くそなので時々Aクリアだったりしました。ただ、Aクリアの曲は高難度だった分、簡単な曲のSクリアよりペンダントが多くもらえたりしました。一回につき18〜25個程度です。
 
なので、ざっくばらんにいうと
”寝ている時以外スタミナを漏らさず1曲ずつ難易度の高い曲をSおよびAクリア”→1日TTNNを20回くらいプレイしました。音ゲーが好きで無職だから出来ました。
結果はこれでした…!
 
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キョーコ三枚取りアイドルスパークル+6成功!
ドキドキしながら開いたプレボに入ってたの見て、すごく嬉しかったです。
(ハイスコアから下手くそさが丸見えですね…)
 
ただ、前日や前々日まで150位あたりにいたので、フィニッシュでガーッと溜め込んだペンダントを放出する人がたくさんいるのを実感しました。
前回のバトライブや前々回のレイドではそんなことなかったような。
 
300位入賞ギリギリアウトでしたが、多分、”一番難易度の高い曲を全曲Sランクで”出来てたら余裕で入れてたんじゃないかなーって思います。もうこの1週間でだいぶデッキも強くなったしいけそう。
 
最初は特に気にかけていなかったけれど、このイベントでキョーコちゃんに愛着がわいて好きになりました♡
GSの水着画像、女の子のセクシーなとこてんこ盛りでめちゃかわいい。胸はもちろんだけど、脇、おへそ、肋骨、鼠蹊部、おしりまでぜんぶ凝ってて、ナナシスの絵柄はそういうフェチ向けのポイントを押さえた描き方が魅力的だって思います!
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精神のスピード、制限のある体と時間

気づけば、最後の更新からはだいぶ日が経っていた。日常の変化に忙殺されこのブログのことはすっかり忘れてしまっていた。大学を卒業し、恋人の家に住み暮らしている。

ちょうど1年前に更新した、閉鎖病棟入院記は今となれば過去のことのように感じる。今日この頃は、精神がどん底に来ては「去年よりはマシだ、去年よりは…と」心で唱えている。

 

大学を卒業できたことは、世間から見たらちっぽけな事ながらも自分の中では数少ない誇りになっていて、それでなんとか生かされている。あまりに弱すぎて何もできない自分が生きることを、自分自身が許すための鍵となっていると思う。それはどんな成績であろうが、自分自身の力で、あの手この手を使い、成し遂げ、得たことのひとつだからだ。

大学は出たけれど、今は察する通りプータローである。卒業が決まってからは晴れやかな気持ちで引越しの荷造りをテキパキこなし、スーツケースひとつを引っ張り恋人の家に転がり込んだ。そして息つく間もないタイミングで懇意の方から洋菓子店でのアルバイトを紹介され、就職活動をひとつもしないままフリーターとして賃金労働をすることになった。仕事も楽しく一週間もないうちに職場で自分がリーダーシップを発揮できたことの喜びと、着実に見合った給料がもらえる喜びでいっぱいで、私はなんてラッキーガールなんだ、とまで思ったくらいだ。

 

しかし、案の定それが長く続くということはなかった。発達障害によく見られる「過集中」が原因か、体力のないままいきなりフルタイムで働き始めたことからか、その双方ともが災いしたのだろう、自己管理ができずろくに食事や睡眠もとらないまま通勤2時間ほどの場所に満員電車に揺られてひとり店番をしているうちに、目に見える形で痩せていき、ひどい首こりや群発頭痛やめまいに悩まされることが日に日に増えていった。免疫力の低下からも仕事前に必ず服用していたストラテラコンサータの副作用が強く出るようになり、出勤前に吐くことが増え、いくら働く意志を持っていても体がうまく動かなくなった。少人数精鋭のなか、中心となって仕事をしていたため上からの良い理解は得られなかったが、それから徐々にシフトを減らしてもらい、スピーディーに辞職への手続きへと至った。

 

それからというものの、自身の発達障害をいままでよく見ていてくださっていた主治医からも、急な副作用と体調の悪化により薬を処方しかねることや障害に対し対策する手立てがないことから匙を投げられてしまった。食事も取れず眠ることもできず、ただただ布団に伏し続ける日々がしばらく続いた。

 

そんな毎日を繰り返すことで夏が来てしまったのはあっという間すぎて、現実をまだ受け入れられていない。新しい病院にかかりそこで治療を受けながらも療養という形で相変わらず引きこもりがちだ。毎日様々な不安で頭をいっぱいにしながらインターネットとコンビニと家を往復している。

この頃はもう誤魔化している。貯金を食いつぶしながら日がなゴロゴロ、ダラダラと好き放題ゲームをしてお菓子を食べてぐうたらニート生活を恋人とそれなりに楽しく送っている、と思うようにしている。PCでSNSをボケっと見て(Facebookは心のために回避している)、絵を描いて、最近ハマっている、デレステだとかナナシスとかのアイドルリズムゲームのイベントをひたすら走りまくって遊んでいる。そのうちに心も体も自然と治ってくるから、焦らないようにと言い聞かせている。

 

 

夢速報

夏祭りの夜小学生たちが屋台を歩いているとき、驚くべきものに立ち会った。

彼らよりずっと小さな浴衣の華奢な男の子が、みんなの中に、いつのまにか紛れていた。
 
「ごめんね!」10歳の女の子がそういったのは、カランコロン下駄を鳴らしていた時に男の子は彼女の方を向いていて道を妨げていたから。
「もしかして知り合い?お前らの弟かなにかか?」歩く集団は5,6年生、しかし目の前にいたのはどう見ても小学校低学年生だ。雑踏の中、楽しそうに水色の浴衣を振る。
「なんだ?」「こんなやついたっけ」「いや…見覚えあるな」「こいつZ助じゃん!けどお前」
「ごめんね!!!でてきてごめん!!!でも!!!どうしても!!!」という小さな男の子の姿は流動する線で縁取られ、内側は半透明のゼラで構成されている。奥行きがなく、ペラペラとしている。
 
「おーう、来てたんか!」11歳の少年は彼と一番中が良かった。それでもなおひどい大根演技に恐怖を抑えこんでいた。
 
「(おばけだからきらわれる、こわがられる、きらわれないように、ここにきてはいけなかった…どうする)」男の子は悩んでいる。
 
勿論のこと、少年と二元の男の子の周りはしんとしてしまい、まわりは青ざめた表情をしている。
 
「おい、なにがおかしいんだよ」脂汗と恐怖を抑えるのに必死だ。
 
 
「(そうだ……)えいっ!」人も屋台もひたむきに走り抜け、男の子は全身をバネにして跳躍した。
 
 
 
 
そして男の子は、手を広げ仰向けに寝ている私の左中指に飛び乗った。それから胴体へと一目散に駆けてきた。身長もちょうど、私の中指一本程度であった。
 
「いなくなっちゃえばいいんだ♪」と、男の子は、まるでシュートされるサッカーボールがごとく私の腹部めがけて勢いよく潜り込み、私自身が壁に打ち付けられた。
 
そこで、わたしはハッと目を覚ました。身体は仰向けだった。ペラペラの男の子はどこにいったんだろう。
 
 
 
 

皮膚とこころ

心が醜くなると、見た目も醜くなる。

ところで私は実家に帰ってくるたびに精神的な不調に毎回見舞われるのだけれど、今回は比較的安定していたように思えた。
 
だから、いつもよりは長い時間をとり地元にいたものの、やはり調子が悪くて自室にこもりっきりでほとんどの時間をネットサーフィンと睡眠に費やした。ずっと横になってコミュニケーションも取らないでいるとあらゆる感覚が鈍り思考回路が歪んでいくのを感じる。
 
その心象風景は高校一年生の冬から二年生中頃まで引きこもりだった時によく似ていた。
 
高校二年生に上がる段階で中退し、通信制高校に編入したのだけれど、その時の学生証がまだある。大学の学生証も笑っちゃうくらい垢抜けずもっさりしているけれど、とりわけ後ろめたさも持たずに人に見せてネタにできるほどのものだ。
通信制高校の学生証は引きこもり真っ只中の際に撮った証明写真で、顔色は青白く、いびつな表情に、何よりも目つきが”世界を憎んでいるぞ!!”みたいな犯罪者級のそれだから絶対に見せたくないし黒歴史でもある。
 
今回の帰省でまた引きこもりつづけてふと自撮りをしたら、久しぶりにその学生証と同じような顔つきになっていたから心底残念な気持ちになった。何も変わってないと思った。あるいは元に戻っちゃった、と。
 
普段から人前に出たり気持ちが前向きな時は自然と表情が生き生きとしてくるということがすごく分かって、同じ顔のはずなのに人相はとても変わるものなんだなと実感した。
 
 
私はある時からひどい醜形恐怖になって、それも高校を中退した一因できっかけは本当に些細なことだった。
ずっと無口で本ばかり読んでいた根暗な私だったけれど、話したこともないクラス1の人気者だった男の子になぜか好意を持ってもらえてとても緊張していた。
 
コミュニケーションが苦手だったのと自尊心の低さと卑屈さから、その好意をうまく返すことができなかったのが今ではとても勿体無かったと思う。あそこで今ほどおしゃべりになれたら
こんなにこじらせてなかったのかな、もっと華やかで普通になれていたのかな、と何度も思い返す。
 
だけれど私はオタク・グループの一員で、彼はもちろんのことウェイで、ギャルとよくつるんでいた。物静かな分地獄耳だったので、幸いいじめを受けたことはないのだけれどギャルの大将が”言うてあの子よく見ると可愛くないよね”と私について言っているのを小耳に挟んでしまってそれから顔を見せるのがひどくいやになった。
 
大学に入ってからは随分垢抜け、素敵な先輩やかわいい後輩に恵まれたとは思えど、周囲の同期の女の子からはとくに可愛くないくせに、ハゲてるくせに、しゃくれてるくせに、目も鼻も歯並びも整っていないくせになんでアイツが…と陰で言われていると確信している。扱われ方でもすぐわかる。簡単に捨てられるからソコソコやれそうなブスだと間違いなく思われてる。
 
それ以前にもさいわい親には容姿を可愛がってもらえていたから、勘違いして中学校の頃にコスプレをしていたけれど、あまりの写真写りの悪さに絶望して顔のパーツが本当にいやでいやになってどんどん引っ込み思案になっていった。
 
中学生の頃といえば、笑い顔が猪木に似てるだとか、言った側は軽い冗談で悪意はなかったのかも知れないけれどそういうことを言われて人前で笑えなくなったこともあった。
 
そんなちっぽけな言葉にすらひどく傷ついて自分の顔に対するコンプレックスはどんどん堆積していった。それから自然に笑えるようになった時は表情の豊かさを好いてもらえるようにはなれど、100回お世辞でかわいいと言われようが1度ブスと言われたらその言葉の方がずっと重いと知っている。
 
それからどんどん根暗になっていったのだけれど、このままでは良くないと思い2ちゃんねるの美容板を見て造顔マッサージや鼻叩き、目の筋トレなどを試みたもののすぐ飽きてしまった。
 
それから服装や髪型に凝り始めることになりもした。そこで気付いたのは人に見られストレートな批評をうけたり客観的に自分を見ることでそれをバネに容姿も雰囲気だけでも多少マシになるということだった。
 
私が友達に写真を撮ってもらったりヘアサロンのモデルを引き受けたり水商売に足を突っ込んだのもその手段の一つでもある。
 
どこが悪いのかをストレートに理解することができるし、逆に自分の長けたパーツも把握することができるからだ。
 
しかし現実はそううまくいくこともなく、友人や恋人の愛の言葉も、真っ赤な他人のささいな一言で全てが台無しになる。バネにできるほど強くなかった。身の程が知れたという点ではとてもありがたいけれど、自分にとっての長所がどんどんわからなくなっていく。
 
ずっとそんなことを繰り返してばかりいるから成長していないし、自分に似合う身分相応のスタイルを貫くほどの自信もない。人前に出る時は、自信があるふりをしているだけ。
 
顔の美醜は生活態度や堂々と構えた心持ちで変わるものの、やはり自分の容姿が気に食わなくて仕方ない。
とりわけ両親や周囲の人々の容姿が整っているからつねに生きていて、人前に顔をさらしていて、申し訳ありませんという気持ちでいっぱいだ。
 
自分の顔を人前に公開することはモチベーションを保つためでもある反面、わたしにとって一番の自傷行為でもある。それは時に快楽にもつながることもあれば苦しみでもある。
 
さすがに美的感覚が狂ってしまうほどのメイクや整形をしたいとは考えないし狂わないと思うけれど、どす黒く歪なコンプレックスの塊をつねに抱え続けているのはとてもつらいことだし、欠点ばかりのわたしは少しでも自信を持ちたいし生きる上での苦難から少しでも開放されたくてどうしようもないしできるだけ愛されたい。外面に自信が出れば性格ももっと強くあれるのにと思う。どうにかして負の連鎖を断ち切りたい。
 

転がっていたつもりが転がされていた

いつの間にかとても頭が悪くなっていて、感覚だけで回答して満点を取れていた理数分野のテストも、気づけば平均点になっていて、身長が伸びるにつれて少しずつ、それは平均以下になっていった。

 
何もしなくても許されるのは束の間だけで、成長するごとに努力が必要になるし、それだけでは足りず掌の上の砂の粒のようにぽろぽろと才能は零れ落ちて、握った掌の汗にこびりついて取れなくなった砂だけが世の中を渡り歩くことができる。
 
努力はとても難しいことで、常に適切な速さで歩み続けなければいけない。立ち止まっていれば落ちてしまうし、途上で何かの問題に引っかかってしまえば、それを取り戻すべく走らなければならない。
 
しかし、いくら走ったり泳いだり必死で進もうと思えど生まれや育ちや環境的要因という壁が立ちはだかり、壁を打ち破る力も飛び越える力も持てずにいる状況は増すばかりだ。
 
そして生きていると人は必ず石を投げられる。どんなに環境的要因に恵まれた人間にも石は飛んでくる。今いる場所から、高みを目指せば目指すほど苦痛は伴うしでも登らなきゃいけなくなるし。うまくかわしていかないと壁を登れないし落ちてしまうし、壁に突進してぶち壊す体力もなくなりそのまま歳をとり朽ちていく。
 
生きるのは難しくて、どんなに難しく考えなくても力が必要で赤ちゃんの柵のついたベッドを粉々にして毎日を自分の力で作っていかなければいけない。そうしないとご飯を食べることもできないしいい生活なんてできやしない。
 
どんなに運に恵まれた人間でもどこかはつらいししんどいし、だからどうせと思ってダラダラと生き続けているけれどそれでも必要最低限のことはこなさないといけないし、楽しいことをひとつする代わりに何かひとつ面倒臭いことをこなさないとどんどんツケが回ってくる。
 
そうやってラクしているうちに壊れるのは自分自身だった。壊れたものはもとにはもどらない。
ガラス瓶をぶち壊して、元あった形に直そうと思ってもすぐ粉々になるし、風化して粒状を描き風に吹き飛ばされ跡形もなくなり死んでしまって取り返しがつかなくなるだろう。
 
みんなみんな壊れていくけれど元あったかのように直すこともできるし、歪だけど作り直すこともできるし、頑張ればもっと綺麗なものができるかもしれない。
 
負けじと歯を食いしばって楽しくて満足のいくものにしなければいけないし、ガラス製の武器が壊れたって壁はつねに殴らなきゃいけない。
 
自重に負けて崩れる階段の足場を少しずつでも登らなきゃ、その先には天国のドアがあって、途中で翼が太陽に溶けて落っこちても登らなきゃって、最近やっと気付きました。

東京はすべての始まりの終わりの始まりの終わりの土地

Twitterを始めたわけは大学生活が主なきっかけだった。

私は大学に入り上京し一人暮らしをするまで、通信制高校と田舎の図書館の自習室と自室を黙々と行き来する生活を送っていた。
会話はあっただろうか。何かの受け答えにイエスかノーで答える事くらいしか出来なかったことと、英作文の添削にまつわる質問をしたことしか覚えていない。
あとのほとんどは照れ笑いで乗り切っていた覚えしかないし、Facebookで今でも関わりのある友達もいることはいるけれど自分から何かを話したことはほとんどなかったと思う。話しだすと意味不明なことを延々と言い続けてしまうから。
 
大学は右も左もよくわからないような賑やかな場所で、当時の私は新しい環境に夢を抱きつつも天井から何かが降ってくるのを皆がすくい、そこから落ちた粒をひたすらかき集めるチャンスを狙うハイエナみたいな性質だったと思う。
大学にはなんとなく馴染めて、入った学部に変わった人たちが多かったからか、積極的な一人に声をかけてもらいその人についていき芋づる式に仮設された人間関係の輪に入っていた。寡黙で、見栄っ張りで、嘘ばかりついていた。
 
しかし自分から話しかけるのはとても苦手だった。
高校時代には一度も友達と放課後ファミレスに行って談笑するなどというイベントもなかったし、楽しみといえば自転車を走らせブックオフやお宝発見館で掘り出し物のサブカルみたいな本を購入したり、地元のレンタルビデオ店を何件も巡り散在するハードロックとプログレとメタルの名盤をいかに安く借りるかに没頭するなどという1人でいることを楽しんでいたから、どう話を切り出したらいいのかとか、人間との距離感とか、まったくわかっていなかったからキャンパス内で誰かに声をかけられない限り一人でずっと過ごしていた。
実家にいる時は、絵を描き漫画を読み音楽を聴き、定期購読していた青文字系ファッション雑誌を手垢がつくまで読み、本棚を埋め尽くしたらお気に入りのコーディネートを切り抜きスクラップブッキングしてから処分していた。
芸術や文化の中でも、ファッションに対する憧憬も持っており、田舎の物の価値のわからないような古着屋で安売りされていた派手なブランド物の服や需要のないバンドTシャツをこよなく愛していた。だから自らコミュニケーションが取れなくても、都会で浮かずに済んでいたしファッションを通して声をかけてくれる人も少なくなかった。
 
1人で広いキャンパス内をさまようしかなかった私に、そのファッションを通して声をかけてくれたのが良くも悪くも大学生活のほとんどを占めた軽音楽サークルの先輩にあたる人だった。
私は形容すればいかにもスカしたような身なりをしていて、それが功を奏してた。
軽音サークルの人からしたらロックが好きなので声をかけてください、と言わんばかりの見た目だった。毛先を強い赤色に染めた人間が声をかけられないほうが不思議でもある。
新品だがダメージ加工されたバンド風の派手なラグランTシャツにサイジングに気を使いスタイルがよく見えるようにロールアップしサスペンダーをつけてチャラくしたボトムス、足元は偽物のジョージコックスかドクターマーチンを履き、OUTDOORのアメリカ柄の、缶バッチをつけたいかにもなリュックを背負っていた。
 
高校時代の思い出を付け加えれば、ギターを買って貰いひたすらニルヴァーナのスメルズのリズムカッティングを練習したり、ブラックサバスのParanoidでギターソロとバッキングを覚え、地獄のメカニカルトレーニングの教本を買って諦めて、ユキと名付けた白のSGがインテリアと化した事もある。
友達がいれば地元でもバンドを組みたかったし組んでいただろうけれど、口もろくに聞けない自分にそんな友達なんているわけがなかった。
 
だけれど、ずっとバンドを組みたい思いは残っていて、あわよくばと思いインテリアとして愛でていたユキを新居に持ち込んで飾っていた。すくい上げた砂の中に、あるいは浮遊している間にバンドを組むチャンスがある事を内心強く願っていた。
そしてそんなものは強く願わなくてもすぐに叶った。
そもそも最初に声をかけてくれたのはシンガーソングライターで後に同じバンドを組むことになった人物だったのでとてもミュージシャン人口が多く様々な伝説のバンドを輩出した大学だったことを後に知った。
サークルの勧誘からとんとん拍子に入部審査(コネが必要)を通りバンドを覚え日常会話を覚えやれ酒を覚え煙草を覚え男を覚えと、今までの引きこもり生活から一転、アクティブな人々に囲まれた刺激溢れる毎日が始まり、それはサークルを引退するまで続いた。そんな人々に囲まれた中うまく話せなかった私は見た目が派手なギャップからも面白がられていた。
だけれども、いきなり180度違う視界に変わった生活を維持するのにはかなりの労力を割くこととなり、限界を知らない私はどんどんペースを上げていった上に常識知らずだったから、三年と持たずにくたびれていった。
そうやってくたびれ始め、気づけばTwitterのアカウントが二つになっていた。ひとつは従来の知人と関わりを持つためのもので、新しく作ったアカウントは誰一人フォローをしていない鍵付きのアカウントで、悪口こそ書かなかったもののしょうもないウンコみたいなことばかり呟いていた。
 
 

閉鎖病棟からこんにちは(3)〜路上に捨てる〜

閉鎖病棟内での生活にも、4日程度建てばすぐに慣れてきた。病棟内の人々ともなんとなく打ち解けることができてきた。

最初のころは手持ち無沙汰にベッドにこもり、ロビーにある本を借りて読んでいる時間が多かったが、よくトランプをしていた人たちは積極的に声をかけてくれるようになり、かなりフランクに接していた。
 
閉鎖病棟での措置入院生活は、基本的に一ヶ月前後だという。しかし、中には自由がなさすぎる環境が帰ってストレスとなりうると判断される患者は2日程度で出て行ってしまうケースもあるという。
ズルい話ではあるが、近い日に私は海外旅行の計画を立てていた。
それについてはどうしてもキャンセルができないし、同行者への迷惑を鑑みたことと、いくら調子が悪くとも絶対に改善の兆しになるだろうと考えており行こうと思っていた。
私は同じところにずっととどまるというその行為だけで自殺してしまいそうになることが少なくない。
そしてこれ以上、イレギュラーなチャンスを無駄にしたくは無かった。
ということで、その旨を伝え、従来より一週間程度の入院という予定を組んでもらっていた。
一週間、経過を見て何か問題を起こして保護室に入れられる様なことさえなければ大丈夫、とのことだった。
 
もう数日後には退院できるだろうという頃合いだった。すこし彼らが名残惜しくもなり、なるべく沢山話して他の人たちとも交流を深めたり、作業療法に参加するなど積極的に閉鎖病棟内の退院への日々を過ごしていた。
 
しかし、その環境に親しみ深くなるとともに、そして、病棟内の人々について知るたびに、そこにいる彼ら全員が何故ここに辿りついてしまったのかという事もだんだんと脳裏に描かれていった。
自殺についてロビーで談話していた。すると突然、患者の女性が振り返り「死になさいよ!」と罵声を浴びせてきた。話し声が大きく攻撃してしまった様に聞こえたのかもしれない。その日には、ほかの患者からも(いつもと同じ様に談笑していた時に)「うるさいわよ!」と怒鳴られた。
 
そういった、普段おとなしい患者たちの薬だけではコントロールできない部分わ垣間見たり、保護室から時間限定でロビーに出られる様になった患者の虚ろな視線を受けたり、眠っている時に目を覚まされただれかの暴れ叫ぶ声を聞くに従って、ここに私は居るべきでないと感じる様になった。私よりずっと重症の人々だ。なんだか、とても申し訳がなかった。
 
また、そこにずっとい続ければ私が死のうとした時よりも帰って生気を奪われかねない、と感じ急にそこにいることが怖くなった。
 
私は部屋自体の消灯時間になっても電気のついているロビーで人々と話す生活をしていた。
院内では引き継ぎが上手くなされておらず睡眠薬が処方されず、なかなか夜眠くならなかったからだ。
眠くなったらすでに暗くなった四人部屋に行く。それまではロビーの患者といたり、TVを眺めていたり、テレホンカードで友人に電話をしていた。
 
しかし、布団に篭ろうとも眠れぬ夜が続く様になった。意識を落ち着かせようとも彼らのことやこの場所について浮かんできてはとても悲しく報われない気持ちが溢れてきてしまう。
それとともに、自分の行為もひどく浮き彫りになっては悪夢の様な妄想が意思に反して起こる様になり、そこにいる事が苦しくなってしまった。
発狂して頭をガラスに打ち付けそうになったが耐えて、それからの夜は頓服でロラゼパムという安定剤をもらう事になった。
 
退院の日が近づく。それは予定の日であったが、正式な退院を告げられたのは前日であった。
人々への感情移入しきれない苦しみが滲み出ているのを見て取れる様になった頃には、名残惜しくも、一刻も早くここを出なくてはいけないという使命感にも囚われた。
 
だから、予定通り退院を告げられた事が有り難かった。退院したところで、とくに夢も希望もなく、這い上がることのできないほどに心を押しつぶす絶望を持ちながらも、ひどい迷惑をかけながらもなお。
 
退院の日には、二度と彼らには会うまい、と強く思える様になった。まだ、私には入院の必要があるかもしれないが。
だが、今はここの空気に心を殺されるくらいなら、意地でも生きてやろうという気持になれた。
話をした患者たちに別れの挨拶を軽く済ませ、病棟を出る準備をした。母が待っていた。
 
またね!と躁病患者の声がする。
二度と会うか!!と私は笑顔で怒鳴った。